霊導師玲玄の裏稼業 死者は嘘をつく

霊導師玲玄の裏稼業 死者は嘘をつく

last updateÚltima actualización : 2026-10-09
Por:  中岡 始Actualizado ahora
Idioma: Japanese
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大阪・八尾で「玲玄心霊相談所」を営む霊導師・玲玄こと田中玲司。彼には死者の姿が見え、その声を聞く力がある。しかし、玲司は死者の言葉を決して鵜呑みにはしない。 助手の篠崎湊とともに、霊視、心理学、そして現実に残された記録やデジタル情報を照らし合わせ、相談者の抱える怪異の裏に隠された真相を探っていく。 死者は嘘をつく。生きている人間も、自分に都合のいい物語を信じる。 そして、法では裁けない悪意が残った時――玲玄には、表には出せないもう一つの仕事がある。 見えているものが、真実とは限らない。 霊能者とその助手が、生者と死者の証言を疑いながら真実を暴く、現代オカルト・ミステリー。

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1.八尾の古い住宅街
大阪府八尾市。森川智恵子は、スマートフォンの地図と目の前の住宅を交互に見比べた。「……ここ?」思わず声が漏れた。地図に表示されている現在地に間違いはない。予約完了メールに記載されていた住所とも一致している。それでも智恵子は、もう一度スマートフォンを確認した。玲玄心霊相談所。そこには確かに、そう表示されている。だが目の前にあるのは、どう見ても普通の一軒家だった。古い住宅が並ぶ一角だった。細い道の両側に、昔からここに建っているのだろう家々が並んでいる。建て替えられた新しい住宅も混じっているが、瓦屋根や低い塀の残る家も多い。そのうちの一軒。少しくすんだ瓦屋根。年季の入った門扉。塀の向こうには庭木がのぞいている。寺でもなければ、何かの宗教施設にも見えない。まして、テレビで見るような霊能者がいる場所にはまったく見えなかった。智恵子は小さく息を吐いた。ここまで来る途中、何度帰ろうと思ったか分からない。そもそも自分がこんな場所へ来ることになるとは、半年前まで考えたこともなかった。占いにも興味はなかった。心霊番組もほとんど見ない。霊能者と聞けば、まず「怪しい」と思う側の人間だった。それが今、自分から霊能者を訪ねようとしている。理由は一つしかない。真琴だ。一人娘の森川真琴が亡くなって、半年になる。二十七歳だった。夜、一人で歩いていた川沿いから転落した。警察からは事故だろうと説明された。欄干を越えた形跡もない。争った跡もない。誰かと一緒にいたという証拠もない。酒も入っていた。足を滑らせた可能性が高い。智恵子も、最初はそう思おうとした。事故だった。運が悪かった。どうしようもなかった。そう思わなければ、とても耐えられなかった。だが三週間ほど前から、おかしなことが始まった。最初は夢だと思った。夜中、真琴の声がした。――お母さん。目を覚ましても、もちろん誰もいない。次は台所だった。食器を片付けていたとき、背後で、――お母さん。確かに聞こえた。振り返っても誰もいなかった。自分が娘を亡くした悲しみでおかしくなったのだと思った。病院へ行くべきなのかとも考えた。だが、その声は少しずつはっきりしていった。そして数日前。眠ろうとしていた智恵子の耳元で、真琴はこう言った。――圭吾に殺された。智恵子はそ
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2.まともそうな助手
玄関の向こうから、足音が近づいてきた。やがて鍵の開く音がして、引き戸が静かに開く。「お待たせしました」現れたのは、智恵子が想像していた人物とはまるで違う青年だった。背が高い。百八十センチ近くはあるだろうか。濃紺のスーツに白いシャツ。ネクタイも派手ではなく、髪もきちんと整えられている。年齢は二十代半ばくらい。整った顔立ちをしているが、どこか親しみやすい。何より、爽やかだった。霊能者の相談所から出てくる人間としては、あまりにも普通に見える。青年は智恵子を見ると、軽く会釈した。「森川さんですね。お待ちしていました」「はい」智恵子も慌てて頭を下げる。「森川智恵子です。本日はよろしくお願いします」「篠崎と申します。こちらで先生の助手をしています。どうぞ、中へ」声も話し方も普通だった。妙に勿体ぶることもない。「先生がお待ちです」などと言いながら意味ありげな顔をすることもない。智恵子は、自分でも分かるほど少しだけ緊張がほどけた。少なくとも、この青年はまともそうだ。それだけで、さっきまで頭の中に浮かんでいた「高い壺」だの「祟り」だのという不安が少し遠のいた。篠崎と名乗った青年が玄関を大きく開ける。「段差がありますので、気をつけてください」「ありがとうございます」智恵子は靴を脱いだ。玄関も、ごく普通の家だった。年季の入った上がり框。壁際には傘立て。靴箱の上には小さな花瓶が置かれている。霊符らしきものもない。不気味な置物もない。香の匂いがするわけでもない。むしろ、どこか懐かしい。田舎の親戚の家を訪ねたような感じさえした。「こちらへどうぞ」湊が先に廊下へ上がる。智恵子もその後へ続いた。床板は古いが、きれいに掃除されている。廊下の先には何枚かの襖と扉が並んでいた。その一つの向こうから、何かが動いた。智恵子は思わず足を止める。茶色い顔が、廊下の向こうからこちらを見ていた。犬だった。柴犬。首輪をつけたまま、少し離れた場所に立っている。吠えもしない。尻尾を振って寄ってくるわけでもない。ただ、じっと智恵子を見ている。「あ……」智恵子の声に、湊が振り返った。「ああ」犬を見て、すぐに事情を察したらしい。「源、大丈夫。お客さん」源と呼ばれた柴犬は、湊を見る。それからもう一度智恵子を見た。
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3.霊導師玲玄
「こちらです」湊が足を止めた。廊下の突き当たり近くにある和室だった。智恵子は、その襖を見ただけで少し緊張した。これまで通ってきた場所とは、明らかに空気が違う。家そのものは普通だった。玄関も、廊下も、待合室も。ところが、この部屋の前まで来ると、かすかに香の匂いがする。線香とは違う。もっと甘く、けれど重たい香り。嫌な匂いではない。ただ、それまでの生活感のある家の中では明らかに浮いていた。湊が襖の前で一度振り返る。「それでは、ご案内します」智恵子は小さく頷いた。湊が襖を開けた。途端に、香の匂いが少し濃くなる。部屋の奥に、一人の男が座っていた。智恵子は思わず足を止めた。……怪しい。頭の中に浮かんだ言葉は、それだった。かなり怪しい。八畳ほどの和室。窓には薄い簾が掛けられていて、昼間にもかかわらず室内は少し暗い。卓上には水晶のような透明な石。小さな香炉。黒い布の上には数珠や見慣れない石がいくつか並んでいる。壁には墨で何かが書かれた掛け軸。その隣には、小さな仏像らしきものまで置かれていた。そして、その中心にいる男。肩よりもずっと長い黒髪。黒を基調にした、和装とも洋装とも言い切れない服。片手には大粒の数珠。姿勢を崩すことなく、静かに座っている。動画で見た姿そのままだった。いや。実際に目の前にすると、動画で見るよりもさらに胡散臭い。智恵子は失礼だと思いながらも、そう感じずにはいられなかった。先ほどまでの篠崎湊があまりに普通だったせいもある。きちんとしたスーツ。爽やかな青年。普通の待合室。柴犬。三毛猫。そこから突然、この部屋である。同じ家の中とは思えない。「森川さんをお連れしました」湊が声を掛ける。男はゆっくりと顔を上げた。「ありがとうございます」低い声だった。動画で聞いた声。よく通るが、大きくはない。静かで、妙に落ち着いている。男の視線が智恵子へ向く。「森川さんですね」「……はい」「どうぞ。こちらへ」智恵子は促されるまま部屋へ入った。畳の上には低い座卓があり、その向かい側に座布団が置かれている。椅子ではないのか、と一瞬思ったが、横を見ると低い座椅子も用意されていた。「正座はなさらなくて大丈夫ですよ」男が言った。「楽な姿勢で座ってください」「あ、はい。ありが
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4.そこにいる女
「実は……娘のことで」智恵子がそう言った瞬間。玲玄の視線が、ほんのわずかに動いた。智恵子ではない。その少し横。いや。もう少し後ろ。ただ、それは一瞬のことだった。智恵子は気づかない。膝の上で固く組んだ自分の指を見つめながら、言葉を探していた。玲玄の表情が、ほんの少しだけ変わる。驚いたわけではない。怯えたわけでもない。ただ、それまで智恵子だけへ向けられていた意識の一部が、別の何かへ向いた。部屋の空気が変わったような気がした。けれど、それも智恵子には分からなかった。「娘さんですか」玲玄の声は変わらない。低く、静かだった。「はい」智恵子は頷いた。喉が少し詰まる。娘。その言葉を口にするだけで、未だに胸の奥が痛んだ。「一人娘なんです」玲玄は黙って聞いている。湊も何も言わない。タブレットへ視線を落としているが、必要以上に操作する音を立てることもない。智恵子は息を整えた。「二十七でした」口にした数字が、やけに重く感じられた。二十七。まだ二十七。これからだった。仕事もしていた。結婚だってするかもしれなかった。子供だって。旅行にも行けた。自分よりずっと長く生きるはずだった。その全部が、半年前に終わった。「半年前に亡くなりまして……」最後の言葉だけが少し掠れた。玲玄が静かに頷く。「そうでしたか」それだけだった。「お気の毒に」とも、「お辛かったですね」とも言わない。智恵子は不思議に思った。今まで、何度その言葉を掛けられただろう。親戚から。近所の人から。真琴の友人から。警察からも。職場の人からも。皆、気遣ってくれた。ありがたかった。それでも、何度も聞いているうちに、その言葉にどう答えればいいのか分からなくなった。ありがとうございます。そう言えばいいのか。そうですね。と頷けばいいのか。玲玄は何も言わなかった。ただ、話の続きを待っている。そのことが、少しだけありがたかった。「事故だったんです」智恵子は続けた。玲玄の目が再びわずかに動いた。智恵子の背後。そこに誰かが立っているかのように。ほんの一瞬。玲玄の視線は、確かに智恵子を越えた。だが智恵子は俯いていたため、それを見ることはなかった。「川に落ちて……」「はい」「夜だったので」玲玄は小さく頷く
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5.真琴さん
「森川……」智恵子がそこまで口にしたときだった。玲玄の視線が、再び動いた。今度は明らかだった。智恵子を見ていない。その肩越し。少し後ろ。誰もいないはずの場所へ、まっすぐ視線を向けている。そして。「……真琴さん、でよろしいですか?」智恵子の口が止まった。「……え?」声が出たのかどうか、自分でもよく分からなかった。頭の中が、一瞬真っ白になる。今。この人は何と言った?真琴。確かにそう言った。「どうして……」智恵子は玲玄を見つめた。玲玄は答えない。名前を当てたことを誇るような表情もしていない。笑ってもいない。むしろ智恵子の反応にはほとんど関心がないように見えた。ただ、その向こうを見ている。「どうして、娘の名前を……」智恵子は湊を見る。湊は驚いていなかった。タブレットを膝の上に置いたまま、いつも通りの顔をしている。「篠崎さん」「はい」「私、娘の名前……書いてませんよね?」確認する声が震えた。「はい」湊は頷いた。「予約フォームには書かれていませんでした」「先生にも?」「伝えていません」「でも……」智恵子は玲玄へ視線を戻す。「だったら、どうして」玲玄はまだ答えない。その目は、智恵子ではなく、後ろに向いている。妙だった。人間は普通、誰もいない場所をこんなふうには見ない。ぼんやり眺めているのではない。明らかに誰かと視線を合わせている。相手の言葉を待っている。そんな目だった。玲玄が僅かに首を傾けた。「……そうですか」ぽつりと言った。智恵子の背筋に冷たいものが走った。「先生?」返事はない。玲玄は少しだけ目を細める。そして、智恵子に向かってではなく、その背後へ静かに問いかけた。「あなたが真琴さんですね」智恵子の息が止まった。反射的に振り返った。誰もいない。閉じた襖。畳。薄暗い和室。壁際に置かれた小さな棚。それだけだった。「……真琴?」智恵子は呼んだ。返事はない。「真琴、いるの?」何も聞こえない。あれほど自宅では聞こえていた声が、今はしない。智恵子はゆっくりと玲玄へ向き直った。玲玄は同じ場所を見ている。智恵子のすぐ後ろ。ほんの一メートルほど先。誰もいない空間。けれど、玲玄の目には、そこに誰かがいる。そうとしか思えなかった。「先生……」
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6.圭吾という男
「娘が……真琴が、そこにいるんですか?」智恵子の声は震えていた。玲玄はすぐには答えなかった。智恵子の顔ではなく、その肩越しへ視線を向ける。そこに誰かが立っている。やはり、そうとしか思えない目だった。数秒して、玲玄が口を開いた。「今、森川さんの後ろに若い女性がいます」智恵子は息を呑んだ。振り返りそうになって、やめる。先ほども見た。何もいなかった。「若い……女性?」「はい」「それが……真琴なんですか?」「まだ、私からは断定しません」玲玄の答えは慎重だった。「ただ、二十代くらいの女性です」智恵子の指が、膝の上で強く絡み合う。玲玄は視線を後ろへ向けたまま続けた。「髪は肩より少し下くらいまでありますね。真っ直ぐではなくて、少し癖があります」智恵子の喉が動いた。真琴は、生まれつき少し髪に癖があった。本人はそれを嫌って、よく美容院で縮毛矯正をしていた。亡くなる少し前は、それをやめていた。「服は……白っぽい上着です。胸元に小さな……」玲玄が少し目を細める。「花でしょうか。刺繍があります」智恵子が口元を押さえた。「それ……」声が出ない。「それ、真琴です」玲玄が智恵子を見る。「そうですか」「その服、持ってました」言葉が止まらなくなる。「白いカーディガンで、胸のところに小さい花があって……あの子、よく着てたんです。派手なの嫌いやったから」智恵子の目から、また涙がこぼれた。「先生、それ真琴です」玲玄は「やはり」とも言わなかった。ただ小さく頷いただけだった。そして、もう一度その背後を見る。「……そうですか」まただ。誰かと話している。智恵子には何も聞こえない。けれど、玲玄には何かが聞こえている。そう思うと、胸の奥がざわついた。怖い。けれど、それ以上に。会いたい。「真琴は……何か言ってますか?」智恵子が尋ねる。玲玄は少し黙った。背後を見る。何かを待っているようだった。やがて、「いくつか」と答えた。「何て?」思わず身を乗り出す。しかし玲玄は、すぐには伝えなかった。「順番に確認します」「でも……」「森川さん」声は穏やかだった。それでも、言葉を遮るだけの強さがあった。「私に見えているものと、森川さんが知っていることを、一つずつ合わせていきましょう」「……はい」智恵
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7.死者の証言
「本人に、もう一度聞いてみます」玲玄はそう言うと、智恵子から視線を外した。向いた先は、やはり智恵子の後ろだった。誰もいないはずの場所。少なくとも、智恵子には何も見えない。玲玄はしばらく黙っている。まるで、そこに立っている誰かと向き合っているようだった。智恵子は息を呑んだ。「真琴さん」玲玄が静かに呼びかける。それだけで、智恵子の胸が大きく鳴った。「確認させてください」玲玄の目は、智恵子の後ろから動かない。「圭吾さんが、あなたを殺したんですか?」沈黙。時計の音だけが聞こえる。カチ。カチ。カチ。智恵子には何も聞こえなかった。思わず振り返る。襖。畳。壁際の棚。そこに誰かがいるようには見えない。「真琴……?」呼んでも返事はなかった。けれど玲玄は、まだ同じ場所を見ている。その顔つきが、ほんの少しだけ変わった。何かを聞いた。智恵子には、そう見えた。玲玄が僅かに首を傾ける。しばらくして、「……そうですか」と答えた。智恵子はたまらず身を乗り出した。「先生」玲玄がこちらを見る。「真琴は……何て?」玲玄はすぐには答えなかった。ほんの数秒。それから、静かに告げる。「圭吾さんに殺された、と言っています」智恵子の頭の中が真っ白になった。「……やっぱり」声にならないような声が漏れた。胸の奥に押し込めていたものが、一気に崩れる。「やっぱり真琴やったんや……」両手で口を覆った。涙が溢れた。「私がおかしくなったんちゃうかった……」あの声は幻聴ではなかった。自分が娘を亡くした悲しみでおかしくなったわけではない。真琴だった。本当に真琴が自分へ訴えていた。そう思った瞬間、安心とはまるで違う感情が押し寄せてきた。恐怖。後悔。そして怒り。智恵子は振り返った。何も見えない。それでも、その場所へ向かって呼びかけた。「真琴」声が震える。「真琴、ごめんな」返事はない。「お母さん、事故やと思ってた」涙で視界がぼやける。「警察の人も事故やって言うし……お酒飲んでたから、足滑らせたんやろって」自分に言い聞かせてきた言葉だった。事故だった。誰にもどうしようもなかった。そう思うしかなかった。「ごめんな、真琴」ハンカチで目を押さえる。「信じてあげられへんかった」玲玄は黙っていた。
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8.おミツには見えていない
しばらく、誰も口を開かなかった。智恵子はハンカチを膝の上へ置いた。真琴がそこにいる。そう思うだけで、何度も後ろを振り返りたくなる。けれど、見ても何も見えないことはもう分かっていた。代わりに玲玄を見る。玲玄は先ほどと変わらず、静かな顔をしている。真琴の声が聞こえた。そう言った。それなのに、娘の話をそのまま事実とは受け取らない。そのことが、智恵子にはまだ理解できなかった。圭吾に殺された。真琴はそう言っているのに。そのとき。カリ。小さな音がした。智恵子が顔を上げる。カリカリ。今度ははっきり聞こえた。襖の向こうだ。湊がそちらを見る。また、カリカリ。少し間を置いて、「にゃあ」智恵子は瞬きをした。湊が困ったような顔をする。「来ましたね」「猫ですか?」智恵子が尋ねると、湊が頷いた。「たぶん」襖の向こうから、もう一度。「にゃあ」今度は少し長い。玲玄が小さく息を吐いた。「開けてやってください」「いいんですか?」「開けへんかったら、ずっとやります」一瞬。智恵子は玲玄を見た。今の言い方。それまでの丁寧な標準語とは、ほんの少し違った気がした。だが玲玄は何事もなかったように座っている。湊も特に反応しない。「分かりました」湊が立ち上がり、襖を少し開けた。すぐに、小さな頭が隙間から入ってくる。三毛猫だった。白を基調に、黒と茶の毛が不規則に混じっている。顔を覗かせたかと思うと、遠慮する様子もなくするりと部屋へ入ってきた。「おミツ」玲玄が呼ぶ。猫は反応しない。そのまま真っ直ぐ畳の上を歩いていく。「お前、今仕事中やぞ」玲玄が言った。やはり少しだけ、先ほどまでと口調が違う。おミツは当然のように無視した。智恵子は思わず口元を緩めた。先ほどまで、殺された。警察。圭吾。そんな言葉ばかりが飛び交っていた部屋へ、急に猫が入ってきた。しかも、霊能者の言うことなどまるで聞いていない。おミツは座卓の横を通り過ぎる。玲玄が手を伸ばしかけたが、猫はその直前でするりと方向を変えた。湊の足元へ行く。「……お前な」玲玄が小さく呟く。智恵子は、また少しだけ笑った。その声に気づいたのか、玲玄がこちらを見る。「すみません。邪魔でしたら出しますので」「いえ」智恵子は首を振った。「大丈夫で
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9.娘さんが言っているだけです
おミツが再び羽虫を追い始めたころ、智恵子の意識は自然と圭吾へ戻っていた。ほんの少しだけ緩んだ胸が、また重くなる。真琴はここにいる。玲玄には、その姿が見えている。声も聞こえている。そして真琴は、はっきり言った。圭吾に殺された。なら。「先生」智恵子はハンカチを握り直した。「はい」「私……警察に行った方がいいんでしょうか」玲玄はすぐには答えなかった。智恵子の後ろへ一度視線を向け、それからこちらを見る。「今の状態で行っても、難しいでしょうね」「難しい?」「はい」思っていた答えではなかった。智恵子は眉を寄せる。「でも、真琴が圭吾に殺されたって」「はい」「先生にもそう言ったんですよね?」「言いました」「だったら……」言葉が続かない。何が問題なのか分からなかった。玲玄は真琴が見えると言った。実際、誰も教えていない娘の名前を知っていた。服装まで当てた。圭吾の名前も、智恵子が口にする前に知っていた。その真琴本人が、殺されたと言っている。それなのに。玲玄はまるで、まだ何も始まっていないかのような顔をしていた。「森川さん」声は穏やかだった。「はい」「警察へ行って、何と説明されますか?」「何って……」「娘さんが元交際相手に殺された、と?」「はい」「その根拠は?」智恵子は言葉に詰まった。「真琴が……」そこまで言って、自分でも気づいた。玲玄は責めるような顔をしない。ただ続きを待っている。智恵子は小さな声で言った。「真琴の霊が、そう言ってるって……」「そうですね」玲玄が頷く。「警察に『亡くなった娘の霊が、元恋人に殺されたと言っています』と話して、捜査してもらえると思いますか?」智恵子は何も言えなかった。少し考えれば分かることだった。警察へ行く。受付で事情を話す。娘の幽霊が犯人を教えてくれました。そんな話をしたら、どう思われるだろう。まともに取り合ってもらえるとは思えない。場合によっては、自分の精神状態を心配されるかもしれない。「でも……」それでも納得できなかった。「本当に真琴が言ってるんですよね?」「はい」「先生には聞こえてる」「聞こえています」「だったら、何か……」玲玄は静かに言った。「霊が何を言ったかと、現実に何があったかは別です」智恵子は玲玄を見つめた。
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「……お願いします」智恵子がそう答えると、玲玄は小さく頷いた。「では、いくつか確認させてください」「はい」玲玄の声音は変わらない。真琴の霊がいるという話から一転して、ごく普通の相談のような言葉だった。湊がタブレットを手に取る。「答えにくいことは、無理に答えていただかなくても大丈夫です」玲玄が付け加えた。「分からないことは、分からないで構いません」智恵子は頷いた。先ほど、自分が娘のことを何も知らなかったように感じたのを察したのだろうか。そう思ったが、玲玄の顔からは分からない。「まず、榊原圭吾さんについて、森川さんがご存じのことを教えてください」「私が知ってること……」智恵子は記憶をたどった。「年は、真琴より五つ上やったと思います」「今なら三十二歳くらいですね」「はい。そのくらいです」「お仕事は?」「会社員とは聞いてました。でも、詳しくは……」会社の名前までは知らない。どんな仕事をしているのかも、真琴から詳しく聞いた覚えはなかった。玲玄はそれ以上追及しなかった。「お住まいは?」「大阪市内やったと思います」「住所は?」「分かりました」また、その言葉だった。分からないことを答えるたび、責められるのではないかと身構えてしまう。だが玲玄は何も言わない。湊も淡々と記録している。「真琴さんと交際を始めたのが、およそ三年前」「はい」「別れたのが、亡くなる半年ほど前」「……たぶん」智恵子は少し迷った。「正確な時期は分からないです」「構いません」玲玄は続けた。「真琴さんが亡くなられたのは?」「三月十七日です」日付だけは、考えるまでもなく出てきた。忘れるはずがない。「時間は分かりますか?」「見つかったのは、次の日の朝です」智恵子は指を握り合わせた。「警察の人の話では、亡くなったのは夜の十時から十二時くらいじゃないかって」「三月十七日の午後十時から、十八日の午前零時頃」湊が確認する。「はい」「場所は?」智恵子が川の名前と、おおよその場所を伝える。湊の指が動いた。玲玄はその間、何も言わず聞いていた。「真琴さんは、その日どこへ行くと?」「それが……」智恵子は首を振った。「何も聞いてないんです」その日は仕事だった。真琴はいつも通り朝に家を出た。「仕事が終わったあと、そのまま帰
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